なんで「非モテ」論争は面白いか

非モテ」に私がこだわるのには、私がモテない以外にも理由がある。それは「非モテ」というものに差別として認識されにくいという特殊性があるからだ。
たとえばTV番組で、お笑い芸人に向かって誰かが「黙れ!在日!」とか「黙れ!部落民!」「黙れ!クロンボ!」なんていったら大騒ぎになるはずだ。しかし「黙れ!チビ!」とか「黙れ!ハゲ!」「黙れ!デブ!」「黙れ!オタク!」は成立する。要するに、チビ、ハゲ、デブ、オタクなどの「非モテ」まわりの罵倒は差別発言として認知されないのである。もちろん、上であげた罵倒の例は、あくまでお笑いタレントに対して物で、日常で同じことを言ったら多少問題だろう。しかし、「在日」や「部落民」という言葉のもつパワーに比べ「非モテ」まわりは圧倒的に弱い。
これは非常に面白いとおもう。何でなんだろうか?
たぶんそれは「恋愛は個人の自由」というお題目があるからである。要するに「私は嫌いだけど、ハゲが好きな人もいますよ〜。どこかに。」「私は嫌いだけど、デブが好きな人もいますよ〜。どこかに。」「私は嫌いだけど、オタクが好きな人もいますよ〜。どこかに。」という風に、個人の嗜好であることが表明可能であるため、「これは個人的意見。単なる恋愛における趣味であり、差別ではない。」という風に逃げられるからだ。
「恋愛の自由」は認められてしかるべきだ。さらに「恋愛」の本質は差別だ。ある人を他の人よりも大切にするのが「恋愛」なんだから。しかし、この手の「差別」はそのまま放置されるべきなのか。
「モテない」苦しみは確実にある。それは解消するべきものではなく、あきらめるほか無いものなのか。それなら「モテない」人はその苦しみをどうすればいいのか。
努力してモテるようにする、というのが解決策なのだろうか。もちろん、ある個人がモテようと「脱オタ」なりなんなりしたいならすれば良いと思う。それで「モテる」かもしれない(まぁ正直言って、マインドの問題もあるので服を変えりゃ万事解決ってもんじゃないと思うけど)。ひとつの道としては良くわかるし、賢い選択かもしれない。
しかし、それでいいんだろうか?それは本当に正しいのか?それが良くわからないのである。
確かに人は、努力しだいで「非モテ」から「モテ」へと移行が可能かもしれない(本当に可能かどうかも難しい問題だけど今回は置いておく)。しかしそれは、このヒエラルキーを追認することにはならないか。
一体、「非モテ」はどうしたらいいのだろう。このヒエラルキーを解体するべきなのか。解体できるのか。いや、そもそも解体することが、万人にとって幸せなのか?

masao_hate氏まわりの論争

っていうか、masao_hate氏の非モテツガク宣言(草稿)を今読んだら、上のエントリほぼそのまんまじゃねーか。がんばって書いたのに…。書かなくて良かったかも。まぁいいや。
どうも、あの辺の論争のポイントが理解できない。何やってんだろう?Masao_hate氏はリーダーにふさわしくないって指摘しているだけで、単なる喧嘩みたいだけど…。何がしたいんだろ。

ひょっとしてさぁ

masao_hate氏が脱オタして、モテてるから、けしからんってこと?んな馬鹿な。
もし「非モテツガク」なるものを考えるのであれば、そこに関わる人が脱オタしていようとモテていようと関係ない。だってそれって、フェミニズムが男性研究家を排除してるみたいなもんでしょ?「非モテ」内にとどめず、テツガク的問題として間口の広さを確保しようという試みなんじゃないの?興味さえあるなら、どんな人がコメントしてもいいと思うぞ。押尾先生でも可。むしろ聞いてみたいくらいだ。