「ドラえもーん!人生に意味が見出せないよぉ〜」パパパパン!「大きな物語生成装置〜」

NWatch ver.4 - 非モテ・非コミュについてだらだらと
を読んで。雑感。

大きな物語」が崩壊したのを受けて、我々はどうやって生きていけばいいか悩んでいる。
ひとつは、その瞬間、瞬間をとにかく楽しみ、「意味」なんてものを考え無いようにする方法がある。バブル経済のころなら「大量消費」で空っぽだけど楽しく生きることも出来たんだろう。しかし、今はそんなことIT長者くらいしか出来ない。「大量消費」なしで、楽しく生きる術としては、ひとつはDQN化がある。後先考えずセックル!セックル!である。またはオタク化。ツンデレ萌え〜。これも極めれば楽しい。電波男まで行けば、2次元と恋愛すら可能になるらしい。
しかしどっちも人を選ぶ。ある瞬間、はたと自分がやっていることの無意味さに気づいてしまうかもしれん。そしたら終わりだ。おそろしや。
じゃ、何とか「日常」に意味を見出す方法を考えよう。最もお手軽に「日常」に意味を見出す方法とは何か?それは「恋愛」である。
愛する人から愛される。しかも相手は全くの赤の他人。それは、この世界に、ほんの少ししか残されていない「奇跡」のひとつに見える。
知り合いのモテない女性が「自分が死んだとして、誰か悲しんでくれるのかな…。」とつぶやいたことがあった。彼女には親しい友人もいるし、家族からもおそらく愛されているはずだ。死ねばきっと悲しむ。私だって悲しい。しかし、それでは彼女は不満だったわけだ。赤の他人であり、かつ一対一の特別な関係を結んだ「恋人」に、彼女は泣いて欲しいのだ。それによって、彼女の「生」に意味が生まれるから。
「恋愛」が市場を席巻しているのは、こうした理由からだ。簡易「大きな物語」生成装置。それが「恋愛」なのだ。世間は言う。「恋愛では誰もが主人公になれる。」と。

ところが、様々な理由から「恋愛」するのが難しい人々もいる。それが「非モテ」だ。間違えてはいけない。彼らはセックスしたいんじゃないのだ。「大きな物語」が欲しいのだ。
脱オタ」が「非モテ」にあまり歓迎されないのは「着飾って女の子を手に入れても"本当の自分"が愛されたわけじゃないから」という思いがぬぐいきれないからだ。着飾ってセックスしても仕方ないのだ。欲しいのは「大きな物語」なんだから。もちろん、"本当の自分"って何だよって話ではあるのだが。

非モテ」は「恋愛至上主義」を否定する。しかしそれは、「恋愛をしていないから」という理由で「非モテ」を無価値な人間として扱うことに対してであって、「恋愛」に価値を見出していることにではない。彼らが、「恋愛」という簡易「大きな物語」生成装置を操ることは自由であるはずだ。
しかし、私も含め「非モテ」は、自分が動かせない装置を操る彼らを攻撃してしまうことがある。「恋愛なんて無意味!」と。でも、意味なんてものは元々この世界にないのだから、この指摘は何も言っていないのと同じであり、単なるやっかみに過ぎない。
さらに言えば、「恋愛」という簡易「大きな物語」生成装置を動かせる、彼らをやっかむのは、「非モテ」が「恋愛」に意味を見出している証拠でもあるのだ。

「恋愛」をすることが出来ない「非モテ」は、「渇き」から逃れるために別の手段を講じなければならない。それはDQN化だったり電波男化だったりする。でも、それすら出来ない場合もあるわけで…。
必要なのは、様々な「大きな物語」生成装置の紹介なんだと思う。「非モテ」に「恋愛」が出来ないように、人によってできることと出来ないことがあるから、出来るだけ、多くの種類が必要だ。そしてその中から、自分が動かせるものを探し出す。
…もしかしたら、こうやってネットで自説を発表するのも、「大きな物語」生成装置のひとつなのかもしれないなぁ。

追記:
はてぶでも突っ込まれていたので追記すると、「恋愛」をすれば「大きな物語」が手に入り、人生に意味が生まれるかといえば、もちろんそうじゃです。
しかしながら、「プチ大きな物語」(って実に変な言葉ですが)とでもいうべき、「まぁ、とりあえず一瞬意味があるように思えて、うまく日常をやり過ごせるもの」が得やすいのは事実ではないかと思います。
また、私はまだ学生なのであくまで想像ですが、多くの社会人は、「社会での自分の仕事」と「家族」が自分の人生の意味づけに使われると予測しています。前者は「非モテ」でもチャンスと能力があれば可能ですが、もっとポピュラーと思われる「家族」は「非モテ」にはなかなか難しいわけですな。