「会話はキャッチボール」の本当の意味

「会話はキャッチボールなんだよ」ってのは良く聞くお説教だが、私は今までその意味合いを勘違いしてきたようだ。最近、ようやくそれが判明した。

私はこれまで、この言葉の意味を「一方的に話すな」と言う意味として捉えてきた。会話はスピーチじゃないんだから、こちらが喋った後は、相手も喋る。会話が行き交う。つまりキャッチボールなのであると。
だから私は、そんなことは当たり前じゃないか、と思ってきた。私はコミュニケーション不得手ではあるけれど、別に、自分が喋ったら即、耳をふさいで「あーあーあーあー、きこえなーい、きこえなーい、ぜんぜんきこえなーい」とか首を振り振り、叫んでいるわけじゃないのだ。キャッチボールはちゃんとやっている。訳の分からんお説教するな。そう思ってきた。

しかし、この捉え方が、根本的なところで大きく間違っていることが判明した。
ポイントは「キャッチボール」という暗喩である。
良く考えてみれば、「行き交うもの」を例えるために「キャッチボール」である必要はないのだ。なぜ会話を例えるために「キャッチボール」というものが使われているのか。


キャッチボールとは何か。
キャッチボールは体を動かすのだから、一見スポーツっぽい。しかし、キャッチボールはあくまで、何かのスポーツをするための練習や準備体操であって、それ自身はスポーツではない。例えば「全日本実業団対抗キャッチボール大会」なんて聞いたこともないし、「大学時代は毎日キャッチボールに汗を流していました。」と言っても「スポーツマンだなぁ。」とは思われない。


なぜ、キャッチボールはスポーツに含まれないのだろうか。それは、この運動に、目標と言うものがないからだ。
スポーツには目標がある。例えばサッカーならボールを相手のゴールに入れることだし、マラソンなら42.195キロをできるだけ早く走ることだ。
しかし、キャッチボールには目標らしい目標がない。しいて言うなら、ダラダラと続けることだけが目標である。


そして会話はキャッチボールなのである。つまりそこに目標などない。ダラダラと続けることが大事なわけであって、間違っても取りにくい球を投げてはいけないのだ。相手が返せるような球を投げあって、ただひたすら時間を潰す。これこそが会話と言う奴なのだ。

私は会話においてキャッチボールなんてほとんどしていなかったように思う。どちらかと言えばドッヂボールに近かったように思う。相手に如何に剛速球を投げるかを考えてきた。
だから、ヘロヘロな球、すなわち、くだらない会話をする奴をアホだと思ってきた。どうしてこんなものを投げることができるのだろうか。どんだけ、頭が足らんのだと。

それは私がミクシィに抱いた感想と同じだった。友人たちの書く、何の面白みもない、つまらない、非建設的記事。何でこんなにつまらないものがブームになるのか、私は不思議だった。


しかし実は、会話の目標はリレーの継続であったのだ。ミクシィにおいて、足跡の付け合い、レスポンスの付け合いが目標であるように。中身なんて別にスッカラカンでも良いのだ。如何にレスポンスをしやすい会話をするか、それに気を使うものこそ、コミュニケーション上手なのだ。

会話は「量」より「質」だと思ってきた。でもそれは違う。
会話において重要なのは「質」よりも「量」なのである。