モテない男は愛を求めてさまよう旅人

恋愛によって与えられるものというのは「性欲の解消」と「承認」だ。
前者はそのまんまとして、後者のほうだ。まぁ、普通に生活していても「承認」されないわけではない。しかし恋愛によって得られる「承認」は友情なんかと比べ物にならないくらい大きい。
何でかというと、恋愛は通常一対一の契約関係だからだ。私があなたを「この世でたった一人の大事な人」とする。その大事なあなたが私を「この世でたった一人の大事な人」としている。それっくらい大事な私が、彼女を大事だと思っていて…。と合わせ鏡的に「承認」が増幅していくわけだ。
で、恋愛できちゃう人は、この両方ともが手に入る。しかし、モテない人間には「性欲の解消」はエロビデオやらエロゲーやらで何とかなっても、「承認」はなかなか手に入らない。この結果、モテない人にとって「承認」の価値は上がる。
「『性欲の解消』は別にいい。『承認』だ!俺は『承認』されたい!されたいんだ〜!!」
「承認」至上主義。すなわち純愛主義である。
DQNはセックスばかりしやがって!」という怒りの主張は、価値が高いはずの「承認」をぞんざいに扱い、「性欲の解消」だけを楽しんでいる姿勢に対する怒りであると取れる。いわば、サハラ砂漠で喉がカラッカラの遭難者の前でシャワーを楽しむようなもんだ。「体洗ってる場合かよ!水は飲むもんだろうが!」ってわけ。
実際、「モテはセックスばかりしやがって!」とはあまり言わないはずだ。これは何故かというと「モテ」が主語の場合、彼らが「性欲の解消」だけを楽しんでいるかどうか分からないからだ。「モテ」は「承認」のほうも楽しんでいるかもしれない。しかし「DQN」が主語ならば、「承認」は無視し、「性欲の解消」だけを楽しんでいるというニュアンスになるのである。
そういう意味で、モテなければモテないほど、純愛主義に走ることになりやすい。モテないと性欲が溜まっているから、女に乱暴するんじゃなかろうか、と考える女性がたまにいるが、完全に誤解である。そのあたりは理解してあげるべきである。つーか。理解して。