非モテを分類

Motenai BatonでPVが上がっている気がする。もはやこのBlogは完全に「非モテBlog」の仲間入り。元々そんな風にするつもりなかったんだがなぁ…。というか飽きてきたよ、そろそろ。というわけで、「非モテ」に関する考えを3つに分類しまとめてみた。これでひとつの区切りとしようかと思う。


「モテる」行動や服装、言動、趣味は存在する。しかしながら、理想の自己像というのは必ずしもも「モテ」と一致しているわけではないので、バランスの良い選択が必要になる。
男オタクの場合、この理想の自己像(しかも「モテ」方向でない理想の自己像)をグーっと押し出してしまうので、もてなくなっていることが多い。理想の自己像がばっちり「モテ」方向と一致している人にはこんなこと起こらないんだけど。

で、そのことに憤慨するパターンが「非モテ第一のパターン」だ。

「なぜありのままを受け入れてくれない」とか、ひどいのだと「女どもはアホだ」とか言ってみたりする。
もちろん、どういったものが「モテ」であるかは社会的に決定されているものだから普遍的意味などないのだが、そもそも「モテ」とは「多くの人から恋愛の対象として見られる」ことなのだから、ある種のブームでありファッションであるのは仕方がない。「ありのままを受け入れてくれない」のは、その「ありのまま」がトレンディーじゃないからだ。(死語だけどトレンディーしか言い方が思いつかんかった)
このパターンを進めて「恋愛(性)を商品化するな」とか言うようになると、ミスコンや化粧などを否定するフェミニズムの一派になる。確かに過剰な「恋愛(性)の商品化」は拒食症などを生み出すといわれているし、この傾向が加速していけば男女ともに大変キツイことになるとは思うが、完全に「性の商品化」を消滅させることなんて出来るんだろうか?結局は、ある程度はやむを得ない、あたりに落ち着くんじゃなかろうか。このへんはちゃんとしたフェミに聞いてくれ。よく知らん。

で、もうちょい考えを進めると、「そもそもモテないのがどうして辛いんだろうか」という問いへと到達する。その答えのひとつは「現代は恋愛至上主義であるから」だ。これが「非モテ第二のパターン」。多分私はココに居る。
神が死んでしまった現代、自我を維持する為には「恋愛」が重要である。それゆえ、テレビドラマ、小説、漫画…あらゆるメディアで「恋愛」は取り上げられる。そしてそれが出来ない人間はいないかのように扱われる。いた場合は「かわいそうな人」「駄目な人」とされる。
しかし、それってそんなに駄目?自分が生きたいように生きているんだからいいじゃねーか。まぁ、冗談で「俺ってモテない。つらいよー。合コンきぼんぬ」とか言ってみたりはするけどさ。愛なんかいらねーよ。夏。
でも、実際そこまで割り切れるかというと割り切れないわけだが。恋愛至上主義、つえーなぁ。


「そもそもモテないのがどうして辛いんだろうか」に対する、もうひとつの答えは「現代は恋愛資本主義であるから」だ。電波男ですね。「非モテ第三のパターン」。
こっちが上と違うのは「恋愛」を否定しない。むしろ肯定。ただしそれが「純愛」ならば。「純愛至上主義」と言ってもいいかもしれない。
この考え方によると、現代は「金」と「安易なセックス」にあふれており「純愛」がない。彼らは「純愛」を重んじるがあまり、「金」とか「社会的地位」とか「ルックス」とか「テクニック」で決定される「恋愛」を嫌う。恋愛資本主義に踊らされるな!ってわけ。キャリアウーマンへの攻撃性はこのあたりから来ている。彼女たちは、安易なセックスばっかりしているから。(本当にしているかは知らん。でもそう主張する人が多い)
「第二パターン」から見た場合、恋愛至上主義に踊らされてテクニックを磨いたりファッションをあれこれ工夫している人はかわいそうな被害者でしかなく「したければすれば?」程度のものでしかない。しかし「純愛」を重んじる「第二パターン」にとって、これは許すことのできない行為なのだ。それは「純愛」じゃないから。


ま、大体こんな感じだと思う。「非モテ第三のパターン」は「純愛」って言葉が怪しすぎるんだよね。何だよそれって感じ。
ま、いったん「純愛」の存在を認めるとしてもだ。男女の収入格差が減ると「金」で恋愛することが減り、理想像である「純愛」に近づく、と考えればキャリアウーマンは推奨すべき存在なんだがなぁ。というか、キャリアウーマンは安易に恋愛してる、ってのは本当なのか?確かにアルテイシアはそういってたけどさ…。