「コミュニケーション能力」がある人は「空気を読め!」なんて言わない。

上のエントリーで登場した、肌のあわない彼なのだが、どうあわないかって言うと、ネガティブな話が一切できなさそうなんですよね。
この手のタイプは何度か遭遇していて、いつも最後は彼らと険悪な雰囲気に陥ってしまうのだ。例えば、ある催し物が成功に終わったとき、彼らは「終わったー!」と打ち上げを始める。そんな中、「いや、しかし、あの部分はもっとああするべきだったね…。結果として、なんたらかんたら…」などと私がぶつくさ言い始めると、彼らは非常に嫌な顔をするのだ。
別に彼らも反省の必要性はわかっている。問題はタイミングなのだ。何も、みんなが盛り上がろうとしているときに、そういう話を始めるな!空気を読め!とまぁ、こういうわけ。
しかし私はどうもみんなで、パッと同方向を向くのが苦手で、ついつい逆張りをしてしまうのだ。照れてしまうんだよね。俺たちやったぜ的空気に。彼らとうまく付き合うには、常に空気を読んで、同じタイミングでいっせいにドーパミンを噴出することが必要になるらしいのだ。

まぁ、彼らのそういった性格は別にかまわない。問題なのは、こういう人を「コミュニケーション能力」があるだなんて誉める点だ。

「コミュニケーション」というのはお互いの意思疎通なわけで、その巧さこそが「コミュニケーション能力」と呼ばれるものなわけだ。であるからして、本来「コミュニケーション能力」ってのは、「自分とは異なる考えを如何に理解し、その上で自分の考えを相手に伝え、納得させられるか」どうかであるはずだ。
ところが、「空気を読め!」という叱責は、異なる考えは排除するぞ!という表明でしかなく、相手に自分の考えを伝えずに、とにかく「お前があわせろ」と主張することだ。「コミュニケーション」とは全く逆の行為なのだ。
「空気を読め!」は、単に自分が、大勢の人(または権力のある人)と同じ考えを有していて、その力をバックに相手を強引にこちら側へ引きずり込もうとしているだけなのだ。つまり、その発言者に「コミュニケーション能力」なんてない。あるのは政治力だけだ。
しかし、その政治力がゆえに「彼にはコミュニケーション能力がある」なんて話になってしまう。「コミュニケーション能力」じゃなく「大勢と同調できる能力」だろうが。
異物を排除したくなる気持ちは分かる。しかしそれでは、何の化学反応も起きないじゃねーか。「空気を読め!」なんて叱責する連中は「コミュニケーション能力」を磨く必要があるんじゃないだろうか?