現実でしょでしょ?

いまさら「涼宮ハルヒの憂鬱」を語るってのもどうかと思うが、惑星開発座談会で取り上げられていたので、雑談を読んだ感想などを書いてみる。と思ってから時間がさらにたってしまっていて、鮮度がだいぶ失われてしまったが、まぁ良い。
惑星開発座談会23回 - 涼宮ハルヒの憂鬱

涼宮ハルヒの憂鬱」が「メタ萌えもの」であることにはもちろん同意だ。

この物語の登場人物は、誰も彼もが、どっかで見たことある典型的「萌えキャラ」だ。そいつらは、巨乳ドジッ子だの、綾波クローンだの、ツンデレだのであり、しかも超能力者やら宇宙人やら未来人やらである。盛り込みすぎだろ、ってくらいの盛り込みようである。
もしこれだけならば、「涼宮ハルヒの憂鬱」は単なるサービス過剰な「萌えアニメ」なんだけれど、この作品が「メタ萌えもの」になっているのは、ヒロインの設定が特殊だからだ。
涼宮ハルヒの憂鬱」は、我々がいる現実の中に存在する虚構作品なわけだが、その作品内世界はハルヒが妄想した虚構である、という設定になっている。それは、設定だけでは飽き足らず、実際に、我々のいる現実に存在する虚構としての「涼宮ハルヒの憂鬱」の「超」監督としてハルヒは名を連ねている。しかし彼女はそのことを全く把握しておらず、ハルヒ超監督の指揮の下作られた「涼宮ハルヒの憂鬱」の中に存在する、ハルヒが妄想で創った世界に、ハルヒとして存在しているわけだ。うへぇ、ややっこしい。
なんだか「朝のガスパール」みたいだが、とにかく、こうした工夫により、この作品はメタ化に成功しているわけだ。なお、アニメの話順シャッフルは、単にストーリーの都合ってこともあるんだろうが、よりこのアニメの虚構性を強調したように思う。
実際、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」は、その作画や演出のレベルの高さ、スタッフが入れたお遊びについて論じられることが多かったと思う。「涼宮ハルヒの憂鬱」は、「これは虚構であり、あなたが住む現実とは別世界なのですよ」と宣言することで、「現実を忘れるために消費される」ことを巧妙に避けたのだろう。


で、まぁ。このようなことを見た上で、最初の座談会にもどるけど、この座談会では
「メタだから、分かってやってるから、ってのを免罪符にしてオタクどもが非日常に、仮想の青春に入りびたりやがって…「終わらない夏休み」に引きこもるなっ!」という結論に達したようだ。

しかしまぁ、正直この結論は何だかなぁと思う。たぶん、惑星開発委員会の方はこの作品にそれほど興味がないんだろう。いつもに比べて、浅いっちゅうか、古いっちゅうか。映画版エヴァの感想読んでいるみたいだ。アレから9年経ってんだけどなぁ。

単純に「現実=素晴らしいもの」「虚構=弱者が現実から逃げこむ場所」として2つに分けて、「戦わなきゃ現実と!」とか「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」とかって叫ぶのは、あまりに物事を単純化しすぎだ。
もちろん、あなたが「もっと外にでよう!」とか「脱オタするんだ!」と決意したなら、それはそれで素晴らしい決意だろう。でも、本当は虚構を見ている時間だって現実なわけで、私たちの生活に本当の虚構なんてものはないのだ。すべてが現実の中で、他人が作った虚構に目を向けたり、仕事したり、寝たり、妄想したり、遊んだりするわけでしょう。この世界はどこまで行ったって、現実でしかない。
そういうわけで重要なのは、如何に現実の時間を生きるかであって、虚構との付き合いで言えば、現実の中で、どれくらいアニメやら、マンガやらに時間を投資するかってことなわけだ。

最終回、ハルヒはついに新たな世界を創り始めてしまう。しかし主人公キョンが彼女にキスをすることで、もとの世界は回復した(かに見える)。
これをキクチ氏は

 もっとも、90年代っ子の僕としては「日和ってんじゃねーよ」というのが正直なところです。「キョンの帰った先は結局SOS団とゆるゆる遊ぶラブコメの世界で、単なる退行だろ」という批判を、無粋とは知りつつ、いちおうしておこうかな(笑) 。

と言う。しかし、私はこれを退行だとは思わない。
確かに、キョン、そしてハルヒは一見、虚構にすむことを拒否し、現実に回帰したかに見える。しかし、最終回で古泉も言っているように、キス後の世界が本当に元の世界かなんて、実は誰にも分からんのである。それに、元いた世界だって、ハルヒの妄想なのだから、虚構じゃないか。
ハルヒとやキョンは、現実と虚構という2者から、進むべき世界を選択したのではない。2つの虚構から、自分がより楽しいと思われる方を選択したに過ぎないのだ。どこまで行っても虚構にしかなく、現実を持たない彼らにとって、これは極めてまともな選択だと言えると思う。

エヴァは「現実に帰れ!」と言った。でもここは現実だ。現実/虚構という二元論は、それこそ妄想の産物に過ぎない。私たちは現実から逃れられないのだ。ハルヒキョンが虚構の世界から逃れられないように。
それならば、私たちは、幾多もある現実(可能性)から、より楽しい、生きやすい世界を選択していくしかない。別にアニメがみたけりゃ見れば良い。脱オタしたいなら、それもいい。どこまで行っても現実しかない我々は、虚構に行くのをあきらめるほかなく、現実としての「涼宮ハルヒの憂鬱」を楽しみつつ、日々を生きて行けば良いのだ。それだって、青春でしょでしょ?