「避モテ」って言っても色々

先日のエントリーに関し、RSRさんという方にコメントをもらった。
RSRさんのコメントは要するに「女性の醜さを語る」と言うことは

自分たちの正しさを主張できるだけの根拠や論理武装を孤独な喪男たちに提供

することなんだ、という話だった。
本当は、コメントで返そうと思ったのだが、長くなってしまったのでエントリーに仕立てあげてみた。
で、RSRさんの主張は、自分と同じ見解なんですね。じゃ何故、食い違いがあるのか。
ひとつは「ほぼすべての女性は醜い」という命題の真偽です。その真偽を分けるポイントは「醜い」の定義でしょう。
たとえば、覚悟さんのコメントをみると、覚悟さんの「醜い」の定義は実に適用範囲が広い。たとえば、女性を好きになる際に容姿を考慮すれば、それは途端に「醜い」男。しかし私は、そこまで「醜い」の適用範囲を広げられません。そんなことしたら自分があまりに「醜く」なっちゃう。
RSRさんも覚悟さんと同じくらいに「醜い」の定義を広く取っていて、だからこそ、覚悟さんと同じ結論に至るわけですね。その主張をまとめると、こう。

ほぼすべての女性が「醜い」から、恋愛することなんてできないのであり、「喪男たち」は「自分たちの正しさを主張できる」

しかし、私にとっては、女性たちはすべてが「醜い」存在というわけではない。よって、“すべての女性が「醜い」から、恋愛することなんてできない”という主張はまったく納得できないものとなるわけだ。
ちなみに、この覚悟氏的主張をするには、当然のことですが、自分が自分で定義した「醜い」に当てはまらないことが前提になるし、同時にほぼすべての女性が自分よりも「醜い」存在であることを証明する必要があります。「俺はすべての女性より醜くない」と誇るほど自信があるのなら、どうぞ。

ここまでがおおまかなRSRさんへの返信。で、このあとの部分がこのエントリの主題。私が考える「避モテ」、「護身」と言う話。
私にとっては、

私は確かに恋愛出来ない。しかしそれがなんだ。米粒に般若心経が書けないからと言って攻められる謂れはない。それと同じで、恋愛が出来なくても胸を張って堂々と生きよう。

というのが、「避モテ」だし、「護身」。
このスタンスがRSRさんの「護身」と違う点は、女性の「醜さ」を原因にしていない。おかげで自分が「醜く」ても良いのである。こっちのほうがラク。私のような「醜い」モノにも出来ますし、恋愛そのものを否定していないので、もし万が一、億が一、付き合うことが出来たら、簡単に恋愛をする自分を正当化できます。(上の奴だと、たとえば女性に突如告白されても、なかなか付き合えないんですよね。ちょっとでも、自分が課した厳しい条件にその女性が触れていたら、アウトですから。さらに付き合っている途中で彼女のアラを見つけたら、即お別れ。厳しいねぇ。)
食い違いが起きている原因の二つ目は、ここにあるのかもしれませんね。こっちのほうがラクなのに、そっちへ行くのは「自分が能力不足で恋愛できない」ってことを認めたくないだけだろ?という勘ぐり。
恋愛が出来なくてつらい思いをしているのは良くわかります。同じようなもんですから。しかしそこまで、自分の行動に枷を嵌め、ほとんどあらゆる女性を否定する必要なんて無いわけで。「自分が能力不足で恋愛できない」っていうことを認めて、開き直るだけ。
これ、オススメですよ。RSRさん。
で、質問。RSRさんってほぼすべての女性より「醜く」ないわけ?