劇場に立てない男

男の保健室(わたしの保健室にいらっしゃい)

「賢い女を落とす方法」という話なのだが、心を捉えた文はこれ。

女って性欲に負けるのは、いやだけど「愛」に負けるのはへっちゃらだよね。
むしろ負けたい。
自分のカラダに興味を持たれるけれど、セックスに至らないというのは、女の中ではなぜか「愛」です。
相手にかわいい女になってほしければ、かわいい女として扱えばいいだけなのに、
何故、同じリングにずっと女を立たせておくの?

おお、なんだこの感じ。気分が悪いような、勉強になったような、なっていないような。特に効いたのは「相手にかわいい女になってほしければ、かわいい女として扱えばいいだけなのに」である。

普通に生活しているとき、必ずしも男性が男性的であるかというと、んなこたない。女性的な部分もまた同様に抱えている。これは女性も同じ。女性も男性的な部分を抱えているはずだ。これは、本来の自身の性を押さえ込んでいるというわけではなく、本質的に両性が同居しているのが人間だからだ。
で、恐らくだけど、恋愛は「男性性と女性性をむき出しにする場」なんじゃなかろうか。そういう劇場。そして恋愛に長けている人たちはそれをよく知っていて、自分の男性性を、女性性を、強調してみせる。
「男が女を口説く」という構図が一般的なのは、男のほうが性欲が強いからでも、積極的だからでもない。「口説く」ことが男性的で、「口説かれる」ことが女性的だからだ。そういった役割分担を、あえて行うロマンチシズム。それが恋愛なんじゃないか?

で、私のことを考えてみると、私は、いかにも「女性的」な女性が嫌いだ。
ミニスカートそのものは好きだけど、ミニスカートで女を振り撒く女は嫌いだ。カワイイ絵文字が多用され、中身が薄っぺらな女のメールが嫌いだ。くるくる巻き毛が嫌いだし、ラメが嫌いだし、ラインストーンだらけの携帯電話が嫌いだ。

エロゲーで、幼馴染の女の子が主人公に「○○君は、やっぱり男の子なんだなぁって思った。」と言うシーンがあったのだが、私はこのシーンが嫌いだった。自分が「男性的」であることも、あまり好きじゃないってことだろう。

きっと私は「男性性と女性性をむき出しにする場」が嫌いなのだ。男性性を強要されたくないし、女性性におぼれた女性を見たくない。そのロマンチシズムに嫌悪があるのだ。たぶん、動物的で、理性をかなぐり捨てている気がするからじゃないかと思う。

いや、それとも、本当はあこがれているのか?得体の知れない恐怖に足がすくんでいるだけで?
一度、劇場に飛び出して「男性」を演じれば、それが快楽となるのか?私は「演じる」ことの馬鹿馬鹿しさを劇場の隅で冷笑しているだけの人間なのか?