誰が"障害"を持っているのか

S嬢のPC日記:障害・障碍・しょうがい
障害者、障碍者障がい者。このどれを正しい表記にすべきかという話。大学時代に、障害者福祉についての講演を聴きにいったときに、この問題について、講演者は非常に面白いこと言っていた。その受け売りを書こうかと思う。

私は、あまり視力が良くない。たぶん0.1くらいか。だから、メガネ、またはコンタクトが手放せない。また昔から運動が苦手で、家でグータラしていたせいで体力が無い。
もし、こんな私が石器時代に生きていたらどうだろうか。まず、獲物を見付けられないだろう。見つけても、正確に弓で射ることも、槍を投げることもできない。体力が無いから追っかけることも出来ない。誰かに手伝ってもらわなければ、間違いなく餓死する。立派な障害者の誕生である。
現代社会において、私が障害者でないのは、単に現代社会においては、安価にメガネ、またはコンタクトを手に入れることが出来るからだし、別に自分で動物を狩らなくても、スーパーで肉を買えばいいからだ。

講演者は、このような説明を行い、最後にこういった。
「ですから、障害者の"障害"とは障害者が"障害"を持っているという意味ではないのです。"障害"を持っているのは現代社会であり、それが彼らの生活を邪魔している、という意味なのです。」

これはなかなか面白い意見だと思う。だから、「障害者」という表記に私は、それほど抵抗を感じない。
でも、この話の重要な点は、実は表記をどうするべきかという結論には無くて、「障害というものが社会によって既定されている」という点にある。どうしても健常者は、障害者と自分は、まったく別の種であるかのような錯覚をしてしまうのだけれど、そんなものは、社会がちょっと変われば分かったものじゃないってわけ。


この間、ある光景を見て、ちょっと感動した。
携帯にテレビ電話機能ってあるでしょ。誰が使うんだよ、こんなめんどくさい機能、ラブラブなカップルか?そうなのか?むきぃ〜!くやっすぃいいいい!などと思っていたのだが、この間、このテレビ電話つき携帯に向かって、必死に手話をしている人をみたのだ。そう。テレビ電話機能がついたことで、聾唖者が携帯を使えるようになっていたのだ。
技術の進歩が「離れた人には連絡できない」という聾唖者にとっての"障害"をまたひとつ取り除いていたってわけだね。