コミュニケーション能力の話の続き

しばらくネットから離れていたのだが、前回のエントリの反響が多くてびっくり。ちょっと誤解を招く表現もあったしな…。というわけで、乗り遅れてしまったかもしれないが、もうちょい書いてみる。


コミュニケーションをとろうとするとき、「政治力」が大きく関わるというのは間違いない事実だ。「政治力」が強い人のほうが意見は通りやすいし、無い人の声は届きにくい。よって、「影響力」を持ちたいなら「政治力」を磨くべきである。もちろんそうだ。

しかし、「コミュニケーション能力」とは「影響力」なのか?もしそうならば、私は人に拳銃を突きつけて、高らかに宣言しよう。「今、俺にはコミュニケーション能力がある。」


人間は、論理的な機械じゃない。鼻水たらした汚いクソガキと、パリっとスーツで決めた好青年がいたら、後者のほうが信用できそうだ。人間は誰だってそう思ってしまう。でも、だからこそ、相手の属性や「政治力」を無視して、純粋にその意見を聞く、相手の行動のバックグラウンドを想像する、そういった努力が必要なはずだ。スーツの男は詐欺師かもしれないんだから。


「人間は論理的じゃない」という命題は真でも「感情的に振舞うことが正しい」わけじゃない。「人間は論理的じゃない」からこそ、感情に振り回されないようにしなくちゃならない。


「コミュニケーション能力」とは、意思疎通を通じて、全体を豊かにする道を探る能力だ。「君の意見には反対だが、君が意見を述べる自由は命をかけても守ろう」この精神が根本だ。「空気を読め」と非難することは、相手の意見を「空気」という「場の政治力の流れ」で封じることだ。

あなたが「空気を読めない」と批判した連中は、本当にあなたにダメージを与えているか?単にあなたにとって「異物」なだけなのではないか?そして「異物」であり、「不快」であることが、排除の理由になるとしたら、この世界はどうなっちまうんだ。

学校は「政治力」の闘いの場だった。
その中で「政治力」を失ったものは「イジメ」を受けていた。酷い場合は、「イジメ」の対象に肩入れするだけで、「政治力」は地に落ち、今度は自分が「イジメ」の対象にされた。
だから「イジメ」を見ない振りしてきた。そりゃ「イジメ」られなくて済みましたよ。で、これが、皆様の崇め奉る「コミュニケーション能力」の発露なわけ?