オタクが死んで非モテが残った。

今週の日曜はコミケに行って「オタク・イズ・デッド」「クリルタイ」を購入。その後、非モテオフにまで参加してしまった。
オフ会というものには初めて出たが、凄いな。軽く自己紹介をしたら、即「資本主義と非モテ」だのなんだの語れてしまう。コミュニケーションのショートカットだ。まぁ、オフ会レポートなどはメンバーの顔と名前がほぼ一致していないので、やらない。

買ってきた「オタク・イズ・デッド」について語ろうと思う。いまさらですね、そうですね。最近今更の話ばっかりだな、このブログは。

しばらく話題になってから間が空いているので、内容なんぞすっかり忘れている人も多いと思うので、軽くまとめたい。

この本で岡田斗司夫は、オタクを三つの世代に分けて語っている。
第一世代の特徴は貴族主義である。彼らは庶民とは違う。庶民は、好きなものを誰かに決めてもらって、それを好きになる。しかし、貴族であるオタクは自分で好きなものを選び、それを好きだと言える。これがすごいのだ!えっへん!そして多少つまらなそうなアニメも第一話はチェックする。それが貴族としての義務だからだ。彼らは、一般庶民がオタク批判をしても「庶民にはわからんよな」と鼻で笑うだけだ。何しろ貴族だから。岡田斗司夫ことオタキングは、その名のとおり、この世代に属している。
第二世代は、オタクエリート。貴族は「よしよし。庶民にもアニメを布教してやろう」という姿勢だが、エリートは「アニメが分からないのは、お前がクズだからだ!」と熱くいきまく。アニメが如何に凄いかを、アカデミズムなどを利用しつつ説いて回ったりする。これが第二世代。当然、勉強も十分している。
ところが第三世代。今までの世代は、オタクとしての誇り、オタクとしての中心概念を持っていた。しかし第三世代にはない。第三世代は、現実からの逃避する場所としてオタクの世界をえらんでいるから。彼らにとって、オタクであることは、単なる趣味でも、社会性の問題でもなく、「わたし」の問題なのだ。
そのため彼らは、中心概念を持とうとしない。そんなものがあったら、そこから阻害されてしまう可能性があるから。こうして、第三世代は、一人一人が自分の好きな作品以外には興味を示さなくなって、バラバラに。なんとか「萌え」というキーワードで多少のつながりを維持しているだけになった。
「オタク」という民族は死んだのだ。オタク・イズ・デッド

最後に、岡田斗司夫は「プチクリ」を勧める。「オタクだからこれが好きだ」ということができなくなった今、個人個人が自分の好きなものを伝えていくしかない。そのためには「プチクリ」なんだと。


このエントリでは、第三世代が上で述べたようになってしまった理由について自分の考えを書こうと思う。ある程度は、岡田斗司夫の言うとおりなのだが、いくつか「非モテ」的視点で語る必要がある部分があると思うからだ。また、彼は「オタクは“萌え系”だけじゃない」と本の中で主張しているが、少なくとも第三世代の濃い目のオタクの多くはこの「萌え系」に属し、中心概念であると思う。なぜそうなったのか。最後に彼が推奨する「プチクリ」に効果がないんじゃないか、と言うことを書こうと思う。

民族としての誇りを奮い立たせるのに一番効果的なのは、ちょっとした迫害だ。日本でのほほんと過ごしている奴より、海外に留学していた奴のほうが、日本という国家に誇りを持っていたりするのと同じで、外部からの圧力があればあるほど、民族意識は高まり、熱を帯びる。*1

第一世代のオタクは白い目で見られていた。子供が楽しむものであるはずのアニメを真剣に見ていたわけだから。だから彼らの結束力は強い。民族としての誇りも生まれる。
第二世代は、宮崎勤のせいで酷い迫害を受けた。第一世代はせいぜい、変な連中として見られていただけだけど、第二世代は犯罪者予備軍として見られたのだ。それに対抗するべく、彼らはアカデミズムまで引っ張り出し、必死に世間と戦うこととなる。当然オタクとしての誇りがある。
そして第三世代。風向きが変わった。オタク趣味が一般化し始めたのだ。そりゃ、さすがにアニメが好きだと言うことをプラスに捉えられることは滅多にないが、単にアニメが好きなくらいでは差別されることはなくなった。

ここで、「いやいや、俺は今でもオタクということで差別されてるぜ!」と言う人もいるだろう。はっきり言おう。あなたが差別されるのはオタクだからではない。

キモいからだ。


顔がブサイクだとか、運動が極端にダメとか、コミュニケーション能力が低いとか、性格が一般受けしないとか。そういう奴は大抵オタクになる。オタク趣味ってのは、コミュニケーションが苦手な奴に親和性が高いみたいだ。まぁ、マンガ読んだりアニメを見たりするだけってのなら一人でできるからな。
もちろん、コミュニケーション能力が高い奴だって、オタク趣味が好きになることはありうるのだが、この人たちはキモく無い(コミュニケーション能力が一定以上ある)ので、それほど差別されない。よってオタクとしての民族意識は育たない。
オタク・イズ・デッド」で岡田斗司夫は、「アキバ王選手権」で出会った声優オタが、自分で声優さんのイベントをやろうとしないことを嘆くのだが、当たり前だ。そんな行動力やコミュニケーション能力があったら、差別されない。そして、差別されなければ、ぬるいオタクにしかならないのだ。

よって、民族意識を持ちつづけるとしたら、差別されているオタクなのだが、彼らは、第一世代や第二世代のように、オタクに誇りを持てない。
なぜなら彼らは、趣味によって差別されているのではなく、自分自身の「キモさ」によって差別されているからだ。つまり、趣味の否定ではなく、人格そのものへの否定なわけだ。また、彼らの中には、生まれ持ったキモさゆえ、一人で閉じこもるオタクになっていった連中も多い。このため彼らにとって、オタクであることに誇りはない。あるのは屈折した感情だけだ。

この世代で「萌え」がある種のキーワード化したのも、同じ背景がある。モテないオタクの一部(いや多く?)は、その環境のため、エロゲーとかギャルゲーといった「萌え系」に嵌りだした。これには、恋愛の代替物的として、という意味もあるが、どちらかというと、ある一定以上モテないと、これ以上モテなくなる心配がなくなるので、気軽にこういう「萌え系」に行けちゃうということがあると思う。結果として、第三世代の濃いオタクは「萌え」と親和性が高くなった。


まとめる。オタクはカジュアル化した。その結果として、迫害されなくなったオタク趣味を持つものは「ぬるオタ」としてぬるーくオタク趣味を楽しんでいる。一方、オタクでしかもキモかったのか、キモイがゆえにオタク趣味に走らざるを得なかったのか分からないが、とにかく迫害され続ける「キモオタ」たちは、誇りなんて持てない状態だ。

そういう意味では、確かに第一世代が思ったようなオタクはもういなくなってる。

そして、こう言うふうに考えていった上で「プチクリ」について考察すると、この処方箋にはあんまり意味がないように思える。「ぬるオタ」には「プチクリ」するほどの情熱はないし、「キモオタ」にとっては「プチクリ」じゃ気分は晴れないから。だって問題は「自分が好きなことを好きだと表明すると差別される」ってことよりも、彼がキモイことにあるんだもの。

オタク趣味は認められるようになった。そしてオタクは死んだ。

残ったのは非モテだけだ。

*1:余談だけど、そういう意味では、もしもあなたが、在日韓国、朝鮮人を激しく嫌い、消えてなくなれと思っているならば、できるだけ彼らを差別しないほうが良い。あなたが、在日に憎しみを向けるほどに、彼らの結束は高まっていくのだから。