「2ちゃんねらー」ってのは誰なのか

まぁ、潰れる潰れると評判の2ちゃんねるですが、2ちゃんねるは就業時間の合間の心のオアシスなので、潰れないで欲しいものですなぁ。さて。

2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ
http://www.kotono8.com/2007/01/13justice.html

これ読んで、「2ちゃんねらー」の定義についてちょいと考えてみた。
結論からいうと、「2ちゃんねらー」ってのは誰でもないんだと思う。

松永さんによる「2ちゃんねらー」の定義は

 「2ちゃんねらー」と言ってもいろいろな人たちがいるのは当然である。たまたま検索結果で2ちゃんねるのページを閲覧した人も、毎日毎時間書き込んでいるvipperも、どちらも「2ちゃんねる利用者」であることには違いがない。
このページでは仮に「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」と定義してみたい。つまり、2ちゃんねるが批判されると腹が立つ人である。

と言ったものだ。実は私も、以前は似たような定義で考えていたのだが、よく考えてみると、どうもこれがしっくり来ない。

たとえば、私は、「2ちゃんねらー」だろうか。まぁ、世間一般では「2ちゃんねらー」だろう。会社の昼休みに、携帯で2ちゃんねるを見るし、休みも暇だと2ちゃんねるだし、昔はコテハンもってたし、愛着だってある。TBSの亀田VSランダエダの八百長まがいの決着には腹が立ったし、2ちゃんねるの意見にうんうんと頷くこともある。
でも、わたしは嫌韓ではないし、東に募金あらば行って「死ぬ死ぬ詐欺だ」と言い、西にMixiあればコミュニティを乗っ取ってるかって言うとそんなことは無い。一体、松永さんが批判する「2ちゃんねらー」とは誰なのか。

誰かが立てたスレッドが、共感を呼び、人々が集まり、行動を起こす。祭りとはそういうものだ。その集団は、固定された「いつもの顔ぶれ」だろうか?多分違う。祭りのたびにメンバーは異なるし、祭りの途中でも次々と顔ぶれは変化していくだろう。
もし、2ちゃんねるが匿名性でなかったら、メンバーが違うこと、そしてそれらが移り変わることが分かったはずだ。祭りに対する批判は、彼ら個人に向けられただろう。しかし、2ちゃんねるの匿名性ゆえ、そのことは不可視化される。

2ちゃんねらー」と書かれた布を被った訳の分からない連中が何度も事件を起こす。その様子は、「山口組」とか「蛇頭」のように「2ちゃんねらー」と呼ばれる連中がいて、そいつらが事件を毎度毎度起こしているように見える。しかし、そんな集団は存在しない。彼らは今回の祭りでたまたま集まったどこかの誰かであり、共通点は「2ちゃんねる」で集まったことだけなのだ。

つまり、「2ちゃんねらー」とは「ある人々」のことではないのだ。「2ちゃんねらー」とは、2ちゃんねるによって生じる「ある現象」の名称なのである。

したがって、「2ちゃんねらーにも良い人がいる」とか「2ちゃんねらーは良いこともやっている」という言説はナンセンス極まりない。また逆に、「2ちゃんねらーはモラルのかけらも無い」というのも間違っている。
私たちが考えねばならないのは、もしくは批判せねばならないのは、「2ちゃんねらー」という現象を生じさせる「2ちゃんねる」というシステムについてである。「2ちゃんねらーは正義の名の下に炎上をさせてケシカラン」というのではなく、私たちが問うべきは、「なぜ2ちゃんねるにおいては、正義の名の下でこういった現象が発生するのか」ということなのである。