北村薫をよむと、なんか気持ち悪ーいのは何でか。

北村薫「ターン」を読む。いや、おもしろい。面白いんだが、どうして虫唾が走るのか。「女性の描き方がオッサンの妄想だから」とよく言われているようなのだが、この気分の悪さはそれとはちょっと違う気がする。ということで考察。

おそらく、北村薫の嫌な感じは主人公が圧倒的に「善性」をもっていることにあるのかとおもう。
北村薫作品の善側は単純に描かれているかというとそうではない。むしろ、その辺の作品よりも複雑だ。主人公は良き人であるが、その結果として、配慮の無い人を見下す感覚に襲われたりする。そしてその後、その感覚を抱いた自分に罪悪感を感じる。ね?複雑な感情描写でしょ?
でも、これが逆効果になっているのでは?とおもうのだ。基本が善人で、しかも付け上がったら、それにすぐ気づき反省する人。ここまでやられると突っ込みようが無いくらい善人なのだ。「完璧な善性」をもっているのだ。一方、北村薫作品の悪人は分かりやすいくらい悪人している場合が多い。この感じが嫌なのだ。

よく「北村薫の女性像は…」という話があるが、北村薫の女性が腹が立つのは描写が下手糞とか言うわけではなく、今言った様な「完璧な善性」と「処女性」のようなものを、どうも同一視している傾向があるからだと思う。