ニートとか、そのあたりの話

内田樹の研究室: 資本主義の黄昏、というエントリーを見つけた。
概要をまとめるとこんな感じ。

  1. 人間は過剰に働く動物で、それが他の動物と決定的に違う。
  2. だから人間はとりあえず働き、あまったものを誰かにあげた。そうすると気分が良かったから。つまり「仕事」というのは「非等価交換」なのだ。
  3. それに対しNEETは仕事の「意味」が見出せない。彼らは「合理的」だから。
  4. 彼らの「合理的思考」は、彼らを扶養している親たちの「非合理的な」子どもへの「愛」や「有責感」に依拠しているという事実は「勘定に入れない」。
  5. しかし、彼らの行動は短期的な取引に限って言えば「合理的」な経済行為であるともいえる。
  6. あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至った。それがNEETなのだ。
  7. よって、NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはまるで無意味。それとは違うことばで学びと労働の人間的意味を語ることが必要だ。

まったくもって納得できない。なぜ、「学びと労働の必要性を功利的な語法」でとくのには意味がないのか。
内田氏が指摘しているようにNEETはあくまで、

短期的な取引に限って言えば「合理的」な経済行為

を行っているに過ぎない。功利的な語法で長期的な視点に立てば、彼らの行為は自殺行為もはなはだしいわけだ。それに気づかせるという意味で、「学びと労働の必要性を功利的な語法」は一定の意味があるはずだ。
そればかりか、内田氏は「学びと労働の人間的意味を語ること」を勧めている。それはまったくの逆ではないかと思う。

このエントリーの冒頭部分を引用する。

NEETについてのゼミ発表のあとにレポートを書いてもらった。
15名のゼミ生のほとんど全員が実にきっぱりと「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という見解を述べていたので、びっくり。
一昔前なら、「できるだけ楽をして高い給料をもらいたい」とか「サービス残業とかバカみたい」とか「過労死するサラリーマンなんか信じられない」というクールな回答がマジョリティを占めたであろうが、いまどきの女学院生たちはバイト先の「店長」や「正社員の同僚」たちがどれほどよく働いているのか、身近によくご存じであり、その姿に素直な「敬意」を抱いておられるのである。
よいことである。


このエントリーに対して、私以外にも多数の反論が寄せられていた。その多くで、「院生がゴマすっているだけじゃないの?」という意見が見られたが、私はまったく違うと思う。この院生たちは本心でこう発言していると思われる。そしてそれこそが問題なのだ。
尊敬され、有意義で、働く意味のある仕事。自己実現が出来る仕事。もちろんそういう仕事は素晴らしいとは思うし、どんな仕事にも働く意義はそれなりに存在しよう。しかし、それを求めるがあまり、どんな仕事も選択できずに歳をとって追い詰められ、それでも行動が出来ない。それこそが、若年無業者(ここではNEETとはもはや呼ばない。理由は、svnseeds’ ghoti!のこのエントリーを参照)なのではないのだろうか。
もちろん、「学びと労働の人間的意味を語ること」自体がけしからんとまでは言わない。しかしそれは、リクルートやらテレビやら友人やらで何度も語られていることであり、学生に対してはもっとシビアな現実を突きつけても良いのではないだろうか。