嫌韓流と非モテ。論争のまとめ。

嫌韓流と非モテというエントリーに反響が結構あって、その中で色々と論争した。その結果をまとめ、ついでにあのエントリーの穴について書いておこうと思う。

嫌韓の問題点は建設性のなさである。
付き合っていくことが避けられない韓国。しかし、嫌韓厨は「ネタ」を集めるだけで、どのようにして付き合っていくかと言う視点が欠けている場合が多すぎる。これを「非モテ」の文脈で用いたのが先のエントリーであった。

実際、嫌韓非モテには似通った部分が多い。建設的という言葉が、社会を改良していこうとする様子を表すのならば、両者とも建設的ではない。
しかしながら、違いもある。最大の違いは、付き合っていかねばならないかどうかだ。
韓国は隣国であり、政治的にも無視できない規模の国だ。したがって、無視を決め込むことは出来ない。しかし恋愛や人間関係は、かなり無視することが出来る。そのため、「モラリストでない連中は、そして特に女性はすべて醜い」として、そういった人間と付き合わないという選択は可能なのだ。
ここがあのエントリーの大きな穴であった。

論争を通じて、他にも分かったこともある。
「女性はすべて醜い」とする運動は、あまりに女性蔑視の傾向が強すぎるし、排他的に過ぎると常々感じていたのだが、そうなった理由は、この手の運動が「喪男のためのみの運動」であるところから起因しているからなのだ。
たとえば、浮気、拝金主義者や容姿主義者などを批判し「女性は醜い」としているが、それは男性もほとんど変わらない。にもかかわらず、「女は醜い」を強調するのは、これが「喪男のための」運動であるからだ。モテない女に対しての無理解もここから来ている。
実際、私の「建設性がない」と言う批判に対し、建設性はあるとして、RSRさんと言う方がコメント欄でこういっている。

あくまで基本的な対象は喪男です。圧倒的多数の恋愛資本主義者に、少数派である我々が抗うには、一人一人が一騎当千喪男になるより他にないわけです。
恋愛資本主義の欺瞞を暴き、自分たちの正しさを主張できるだけの根拠や論理武装を孤独な喪男たちに提供し、護身の完成を目指すことが目的です。
(中略)
あくまで喪男の自衛であり、それで手一杯、精一杯です。世間が変わるなどと大層な期待はしていません。

いかに喪男を救済するかと言う視点にのみ立つこの運動は「宗教」に近い。

宗教に対し、建設性が無いと批判するのは無意味だ。現実的でないというのも同様だ。それでは、こうした動きを宗教として改めて認識しなおしたときに、問題点はないかを検証する。