宗教としての「非モテ」

宗教である以上、「社会をより幸福にするにはどうすれば…」といった話はあまり意味があるものではない。そういうわけで、ここでは宗教のもつ危険な面を指摘するのみにしよう。
覚悟氏やRSR氏など「女は醜い」とする派閥を、非モテ界隈では 「喪闘気ジェダイ派」と言うらしい。(非モテWAP参照
多分この言い方の由来は、例の「電波男」だ。
電波男」では、強いルサンチマンが発生したときに「オタクルート」をとって「萌え〜」と生きるか、それとも「鬼畜ルート」をとって「復讐」へと至るか、その選択をジェダイがダークサイドに落ちるか否かで表現した。
この指摘は正しい。古今東西、宗教が世俗の人々を憎み始めると、大抵ろくなことをしない。イスラム原理主義者の過激派はもちろん、オウムも、当初から世俗の人々を馬鹿にする傾向があり、それがエスカレートして「我々は毒ガス攻撃を受けている」などと言い出した。そして最後は未曾有のテロ行為だ。
宗教において必要なのは、憎しみではなく、愛や、慈しみなはずだ。そこを履き違えると、ころっとダークサイドへ堕ちる。「電波男」が鋭かったのは、単なる世俗批判に終わらせず、きちっと別の道を示したことだ。萌えという道を。

世俗批判は宗教に必要不可欠ではあるだろう。しかしここで重要なのは、世俗批判は、新しい道を踏み出すための根拠でしかないということだ。それ自体が「癒し」になってはならないのである。「癒し」は宗教を信じることにあって、批判にあってはならない。それは「ダークサイド」の誘惑だ。
さらに新しい道への根拠となる部分だから、その批判においては公平性が必要だ。拝金主義者や容姿主義者を否定するのは信念であり、別にかまわない。どういった基準を設けるのも良かろう。しかしそういった批判をするならば、先ほども行ったように社会全体への批判になるはずだ。「女性は醜い」という一方的な批判になることは決して許されない。また、批判そのものが「癒し」にならないように十分気をつけるべきだろう。
さらにその上で、「新しい道」を示すのが本道だ。とくに「萌え」に関心が薄い人はどうすれば良いのか、といった話こそ宗教としての「喪闘気ジェダイ派」の課題なはずだ。

…まとめようと思ったのに、また批判になってるな。ま、いいや〜。