「非モテ」の敵はどこにいるか

ちょっと忙しくて、返信が書けなかったのだが…。前回の続き。

時代によって作られるモテの基準に優劣はつけられるか?

世代や個々人の価値観の違いをを超えた、もっと根本的・普遍的な人間性の部分で、「表層的なもので人間を評価するのは間違っている」という共通感覚が、ぼくたち人類にはあるんじゃないのか、ということだ。つまり、例外はいても、大多数の人は、「お洒落 < 人間的魅力」で人間を評価するのが「正しい」と感じるのではないかと思うのだ。その部分に目をつむって、「どちらが正しいとも言えない」というのは、動かしがたい世の中の現実を直視できていないように感じるのだ。

というのが大体の要旨。これに関しては2点くらい反論がある。

まず一点目として、お洒落が表層的なものなのか、という議論があるかと。
いや、そりゃ表層的でしょ。ってfromdusktildawnさんは思われるだろうし、正直私もそうは思うんだけど、でも、ファッションを勧める側から言わせれば、「ファッションに気を使う」ことは「相手への配慮が出来る」「空気が読める」という内面の表れなんだそうだ。
逆に「ウーマンリブとのディベート」は私は面白いと思うけれど、一般的にそのような提案を女性にするのは、「トレンディーじゃない」ことであり、すなわち「空気が読めていない」「人に対する配慮が足りない」こととされる。少なくとも私は怖くて出来ない。もちろん、そういうのに理解のある友人はいるので、彼らになら大丈夫だけど。

二点目として、じゃ、fromdusktildawnさんの大学はユートピアなんだろうかって話。そこには、差異化ゲームは無かったんだろうか?

そもそも、なんで「非モテ」という立場の人間が生まれるかといえば、ある「モテ基準」がドッカーンと鎮座しているからだ。「モテ基準」にそぐえば、モテ。そぐわなければ、非モテ
当然ながら、「モテ基準」というのは生得的なものではなく、かなりの部分が文化的に作られたものだ。fromdusktildawnさんがいうところの「ホンモノ」がモテるところもあれば、逆に「トレンディーじゃない」変人として処理される社会もあるわけだ。フェミニズムで言えば「ジェンダー」みたいなもの。
非モテ」の敵とは何か?ってのは大きな「非モテ」のテーマだ。ある人は「女とDQNがすべて悪い」というし、「恋愛至上主義」やら「恋愛市場主義」がいけないんだという人もいる。
でも、私は最近、本当の敵は「モテ基準」なんじゃねぇのかなぁ、と思うようになって来た。「モテ基準」が人工的なものなら、本来、人によって大きく多様性があって良いはずだ。ところが、同じ文化圏においては「モテ基準」は画一化する傾向がある。かくして、どの人の「モテ基準」においても、失格となる「非モテ」が誕生する。
そういうわけで、必要なのは、ほっとけば画一化する「モテ基準」を常に揺るがせることなんだと思うんだが。fromdusktildawnさんの前回のエントリは「こういう"モテ基準"が実際に存在した」という話なわけで、現在の大勢である「モテ基準」を揺るがそうとしているととらえることもできる。そういう側面では異論は無い。
でも、そのfromdusktildawnさんがいう「モテ基準」こそが正しい基準なのだ、という主張は危険だ。あくまでそれはひとつの「モテ基準」であるべきなんだ。そうしなければ、fromdusktildawnさんがいう「モテ基準」から、あぶれた「非モテ」がやっぱり誕生してしまうんじゃなかろうか。