最近の非モテな近況

正直、同期とは馴染めていないんだな。今の時期に馴染めていないなら、定年まで馴染めないんだろうなぁと思いつつ、それでもご友人を作るべく、昼は一緒に食べたりしているわけである。
同期には女の子もいて、中には優しい(非モテにとっての優しいとは、嫌な顔をしないで相手をしてくれる人のことです)子もいるわけで、その中でもAさんは顔もなかなか可愛らしくて好きです。付き合ってください。彼氏いますか、そうですか。
そういうわけでAさんと食事をしたわけであるが、2人っきりではなく(2人っきりだと話がなくなってしまいそうで怖いのでそれでいいんだが)、他の誰かももちろんいるわけだ。今日、同伴したのはB君。というか、AとBが二人で食事をしようというところに果敢にチャレンジする非モテの俺という構図である。いやぁ、我ながらチャレンジングスピリッツが旺盛だこと。Bは良い顔していなかったな、食事の間、ぜんぜん俺のほう見なかったし。
そういうわけで、3人で会話なんだが、まぁBの話のうまいことうまいこと。いや、そんなたいしたことは言ってないのだ。はてなで書いたら0userだよ。でもMixiで書いたら人気者なんだろうなぁ。当たり障りがなく、考えさせる内容はないが、爽やかで、明るく朗らかな健康的な笑いというか、なんていうか。私も何とか話に乗ろうとするんだけど、Bは圧倒的な早さで会話を進める。彼女に会話させ、私が、あ、なんか言わなくちゃえーと、と思っている間に、彼女に適切なアシスト。ドナウ川のごとき会話の流れ。さすが顔はブサイクでも恋愛達者のB。ちなみに、同期のCちゃんもとても優しい子ですきなのだが、CちゃんはBとぞっこんラブであり、腹の立つ男である。んで、私は結局、何もいえない。2人が仲良く話す姿をファミコン版テニスのマリオのように見守る俺。あーもう勝手にしてくれ。
話をあわせにくいんだよなぁ。洋楽の話も、恋の話もまるで分からん。映画「どろろ」を観たいだぁ?そんなもの見たくないだろ、普通。って思うのがいけないのだよ!「どろろ」観たいじゃん!妻夫木と柴咲コウが出演ということは観たいと感じるべきなのである。あんなしょっぼいくだらないこと間違いなしのお子ちゃま向けCGアクション恋愛ごたまぜを観たいと感じてこそ健全なのである。あーあーあーあー。くそーくそーくそー。

そういうわけで、彼らが楽しくお話しする中、私の心は急速に彼らの会話から遠ざかっていくのであった。
そして、そんな俺に、それでも優しく微笑みかけてくれるAさん。君は誰にでもその愛らしい笑顔を振り撒いているんだね…。

「2ちゃんねらー」ってのは誰なのか

まぁ、潰れる潰れると評判の2ちゃんねるですが、2ちゃんねるは就業時間の合間の心のオアシスなので、潰れないで欲しいものですなぁ。さて。

2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ
http://www.kotono8.com/2007/01/13justice.html

これ読んで、「2ちゃんねらー」の定義についてちょいと考えてみた。
結論からいうと、「2ちゃんねらー」ってのは誰でもないんだと思う。

松永さんによる「2ちゃんねらー」の定義は

 「2ちゃんねらー」と言ってもいろいろな人たちがいるのは当然である。たまたま検索結果で2ちゃんねるのページを閲覧した人も、毎日毎時間書き込んでいるvipperも、どちらも「2ちゃんねる利用者」であることには違いがない。
このページでは仮に「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」と定義してみたい。つまり、2ちゃんねるが批判されると腹が立つ人である。

と言ったものだ。実は私も、以前は似たような定義で考えていたのだが、よく考えてみると、どうもこれがしっくり来ない。

たとえば、私は、「2ちゃんねらー」だろうか。まぁ、世間一般では「2ちゃんねらー」だろう。会社の昼休みに、携帯で2ちゃんねるを見るし、休みも暇だと2ちゃんねるだし、昔はコテハンもってたし、愛着だってある。TBSの亀田VSランダエダの八百長まがいの決着には腹が立ったし、2ちゃんねるの意見にうんうんと頷くこともある。
でも、わたしは嫌韓ではないし、東に募金あらば行って「死ぬ死ぬ詐欺だ」と言い、西にMixiあればコミュニティを乗っ取ってるかって言うとそんなことは無い。一体、松永さんが批判する「2ちゃんねらー」とは誰なのか。

誰かが立てたスレッドが、共感を呼び、人々が集まり、行動を起こす。祭りとはそういうものだ。その集団は、固定された「いつもの顔ぶれ」だろうか?多分違う。祭りのたびにメンバーは異なるし、祭りの途中でも次々と顔ぶれは変化していくだろう。
もし、2ちゃんねるが匿名性でなかったら、メンバーが違うこと、そしてそれらが移り変わることが分かったはずだ。祭りに対する批判は、彼ら個人に向けられただろう。しかし、2ちゃんねるの匿名性ゆえ、そのことは不可視化される。

2ちゃんねらー」と書かれた布を被った訳の分からない連中が何度も事件を起こす。その様子は、「山口組」とか「蛇頭」のように「2ちゃんねらー」と呼ばれる連中がいて、そいつらが事件を毎度毎度起こしているように見える。しかし、そんな集団は存在しない。彼らは今回の祭りでたまたま集まったどこかの誰かであり、共通点は「2ちゃんねる」で集まったことだけなのだ。

つまり、「2ちゃんねらー」とは「ある人々」のことではないのだ。「2ちゃんねらー」とは、2ちゃんねるによって生じる「ある現象」の名称なのである。

したがって、「2ちゃんねらーにも良い人がいる」とか「2ちゃんねらーは良いこともやっている」という言説はナンセンス極まりない。また逆に、「2ちゃんねらーはモラルのかけらも無い」というのも間違っている。
私たちが考えねばならないのは、もしくは批判せねばならないのは、「2ちゃんねらー」という現象を生じさせる「2ちゃんねる」というシステムについてである。「2ちゃんねらーは正義の名の下に炎上をさせてケシカラン」というのではなく、私たちが問うべきは、「なぜ2ちゃんねるにおいては、正義の名の下でこういった現象が発生するのか」ということなのである。

新年明けまして非モテ。

久しぶりに、更新を再開し、年明けということで、本年度の非モテがらみの活動に関し、私の立ち位置を述べたいと思う。

はっきり言って、私は、女の子と付き合いたいのである。お手手の皺と皺を合わせて、幸せ、なーむーとなりたいし、ほっぺやらリップにチュッチュしたいのである。オッパイを揉みしだいたり、舐め舐めしたいのである。おまんまんにおちんちんぼっきっきである。
私は恋愛そのものを否定していない。私は「恋愛こそ人間性バロメータである」という考えをぶっ壊したいのである。

もうだいぶ前になるが、同期で海へ行くというイベントがあった。まぁ今なら間違いなく誘われないだろうが、当時はまだ、全員の名前も曖昧な状態であったから私ですら誘われたわけだ。
海岸に到着。砂浜に荷物を下ろす。荷物置き場の目の前に広がる海はサーファー用。海水浴ができる海は、少し歩いたところにある。逆側には、ビーチバレーコート。
つまり、海水浴用の海、ビーチバレーコート、荷物置き場の三点があるわけで、正しい楽しみ方としては、3グループに分かれて巡回するか、6グループに分かれて、右回り組と左回り組を作るかである。もちろん実際は、そこまで数学的に厳密な遊び方をする必要は無いわけで、みなが自然に楽しむうちに、自然と秩序が生まれるであろう。ある人が海に入っているとき、誰かは荷物番をしながら友人と歓談し、ビーチバレーから誰か戻ってきたら、荷物番の一人がビーチバレーをしにコートへと…。

気がつくと、誰もいなくなった。私だけが荷物番をしていた。

なぜだ!なぜこういったことが起きる!海は遠すぎなので、荷物をほったらかして、誰かを呼びに行くことはできない。ビーチバレーは多少近いが、大声を張り上げてやっと届くくらいだ。
私はしばらく迷って、まぁ、しばらく休んでいようかなと思った。その内誰かが、海から上がってきたり、ビーチバレーから戻ってくるだろう。「あれ?もしかしてひとりで荷物番してたの?ゴメンな!気がつかなかった!今度は俺が替わりに荷物番するからさ!みんなと海で遊んで来いよ!」なんていいながら。

…それから2時間ですよ。太陽が海に沈んでいきましたよ。俺は気がつくと、砂浜に深い深い穴を掘っていたよ。

おまえらさぁ、お前らが楽しく遊んでいる浮き輪あるじゃない?アレの空気を入れたの俺だって知ってる?3個中2個は俺が入れたんだよ?なぜか、俺に「空気入れといて」って渡したよね。500メートルくらい離れた海の家まで走って、500円払って空気を入れたけど、帰ってきたときには、もう頼んだお前らは女の子と海へ行ってたよねぇ?
いや、お金はいいですよ、500円×2=1000円(税抜き)は。でも、ありがとうのあの字も無いのはどうなの?僕はあれから一年半待ってるんだけど。あと、1000円に関しては法定金利ギリギリで、1300円になっているから1月中に俺に振り込め。消費税分は免除してやる。

ふー。思いもかけず長々としゃべってしまった。
この長いエピソードで何が言いたいかといえば、「こいつらモテるけど人間としてはダメダメ」ということだ。俺のほうがよっぽどまともだ。ボケナスどもめ。

どうも、この世の中では、「モテる⇔人間として素晴らしい」という命題が真だと信じられている節がある。違うぞと。「モテる→人間として素晴らしい」は間違いなく違うし、「人間として素晴らしい→モテる」も多分違う。
モテるというのはスポーツみたいなもので、それと人格形成は一切関係が無い。モテることは、単なる1ジャンルが得意だってことに過ぎないのだ!米粒に般若心経を書くのが得意だってことと同じなんだ!

知り合いにモテない女性がいてだな、彼女はこの間、ゼミの同窓会に出席したのだ。そこに来る女の子は皆、可愛らしく、彼氏も皆いるわけだ。それを見て彼女は絶望していたよ。ああ、何で私は、彼氏がいないのか、愛されないのか、私はダメな人間だと。
そりゃ、彼女はモテないよ。でも彼女はダメな人間なんかじゃない。彼女の同窓の有名なあの女なんか、会社のあれとあれして、男側はあれになったのに、彼女は平然とあれしてるんだから、はっきり言って人間のくず。くず中のくず。その点彼女は、そりゃー顔はイマイチだし、おしゃべりしすぎだし、余計なことばっかり言うし、空気は読めないが、それでも、非常に真面目で、誠実で、必死に生きてるよ。彼女はいい女だよ。何で彼女が、泣かなきゃいけないのだ。間違ってるだろうと。

彼女は、そして全国3000万人の非モテは、モテないからといって自分の人格を疑う必要なんて無いのだ。米粒に般若心経を書けなくて、自分の人間性に思い悩む奴がどこにいる?
非モテは、自分が良いと思った道を進めば良いのだ。もし、モテたいって気持ちがあるなら、それなりに、やりゃいいのだ。自分が良いと思った道と、モテるための道。もしも相反するようなら、バランスよく選べば良いのだ。
もしも米粒に般若心経を書きたけりゃ、練習はするだろ?でもその練習のし過ぎで、人が死ぬとか、破産しそうなら、練習はほどほどにするだろ?それと同じである。

非モテよ!ああ非モテよ!自分が信じた道を進め。多分モテないだろうけど。
モテたかったら、ちょっとは勉強だ。でも、信じた道を踏み外すこと無かれ!モテに魂を売ってはならない!米粒に般若心経を書くために、悪魔に魂を売る奴がいないように!

これを新年の挨拶といたします。それでは、今年も良い非モテライフを。

日本人には愛俺心が足りない。

皆さんも知ってのとおり、俺は「美しい人」だ。
目が2つあり、鼻がひとつ、そして口がひとつという均整の取れた顔立ちでをしている。話は呆れるほど面白いし、マンガを毎週コンビニで欠かさず立ち読みし、マンガ界のトレンドを常に吸収している。ITにも精通しており、エロサイトがどんなに引っ掛け広告を工夫しようとも、俺クラスのハッカーにかかれば、たちどころに正しい「Enter」を見つけて、エロ動画をハック&ファック(独りで)である。また、こういうお洒落な冗談を、瞬時に思いつき書けるところも、俺が「美しい人」である証左だ。

ところが、最近の日本人は俺をまったく愛していない。こんなに「美しい人」である俺が街を歩いているのだから、女子高生、女子大生、OLはもっと黄色い歓声を上げてしかるべきだし、股を広げてしかるべきだ。
しかし、彼女らは「きんも〜」だの「死ねばいいのに」だの、私を侮辱するばかりである。最近の若い連中には愛俺心が足らないのではないか。

ねえ、日本が可及的速やかに、しなきゃいけないことはなんだと思う?
私は絶対教育改革だと思う。

たとえば、卒業式の際は、俺の写真を掲げて起立させるべきだ。
立たない奴は愛俺心のない、非俺ファンである。特に立ち上がらない教師は処分である。その後、俺を称える歌を歌おう。作詞しておいたので覚えてくれ。

俺が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の生すまで

節は君が代でいいや。

あと、日教組はつぶすね。なんか俺と意見違うし。

さて、ここで質問コーナーです。何か質問がある人いるかな〜?
「はーい!質問があります!」
じゃ、そこの君。
「ええと、『以下のような質問をしてみてください』…あ、ここじゃないや。『最近のいじめ問題や、言葉の乱れも、愛俺心が足りないからだと思いますが、どうでしょうか? なお、質問をする際は棒読みにならないように注意してくだ』…あ、あの後半は無視してください。」

はーい!いい質問ですねー!
そうなんです。だいたい、最近話題のいじめ問題や、言葉の乱れの原因は何かといえば、俺に対する誇りが育ってないからなんだよ。
みんなが俺の事を好きになれば、ファンとしての一体感が増すわけじゃない。いじめ問題解決だよね。さらに、ファンってのはファンの中で独自の言葉を作り出す傾向があるわけだ。モー娘。ファンの「なっち」だの「ごっちん」だの。ということは、全国民が俺のファンになることで、言葉が統一され、言葉の乱れを感じなくなるよね。大変いい質問でした。後で謝礼を差し上げますよー。

モテない悩みを抱えている奴はさ、
1.モテるように努力する。
2.モテなくていいやと諦める。
という二つを考えるんだと思うけど、俺はどっちも取らないよ。努力したくないし、諦めたくもないから。
やっぱり教育改革だよ。俺を愛するように、みんなを仕向ける。これが俺の考えた新しいモテへの路だよ。さぁ、教育基本法を改正しようぜ!

不老不死

不老不死は、時間の感覚の消失を意味する。
なぜなら時間というのは、分数で把握されているからだ。たとえば、40年間、会社を勤めあげたとして、それが「長い」のは、80年の寿命に対し2分の1だからだ。余命が1ヶ月しかない人間にとって、くだらないことで待たされるのは、例え1時間であっても苦痛だろう。なぜなら、彼にとって1時間は720分の1だからだ。

もしも私たちが不老不死ならば、分母は無限となる。よって、分子にどんな数字が入ろうが、等しく0となる。1億年も1分間も等価値だ。

時間がなければ、効率性という概念は存在しない。効率性の分母は時間なのだから。そして、効率性のない世界では、「意味」も生じない。
「意味」とは、それが自分にとって、いかに「価値」があるかであり、「価値」とは効率性なのだから。

つまり、「どうせ死ぬんだから、何事にも意味がない」という、よくある言説は間違いで、「死ぬから、意味というものが生じている」のではないだろうか。

不老不死になるくらいなら、死んだほうがマシだ。

炎上と無断リンク禁止問題

「炎上」について書こうと思って、何度も書き直しているのだが、どうしてもうまくまとまらない。たぶん私自身が確固たる結論を得ていないからだろう。いい加減、疲れたのでとりあえず今まで考えたことをまとめて書いてみる。意見求む。


私の疑問は「炎上は道徳的に問題か」という点にある。そして、この問題を考える上で、私は「無断リンク問題」の再考が必要なのではないかと思うのだ。


「炎上」という現象を非難しようとして気がつくのは、その行為に悪質な行為が含まれていないということだ*1。「炎上」させた連中がやったことといえば、そのブログで既に公開されていた情報や、そこで得た情報を元にネット上から拾ってきた情報を再構成したことだけだ。また、コメントスクラムにしても、コメントを残すこと自体にはなんら問題はない。
そう。彼らはまったくもって、「悪い行為」をしていないのである。少なくとも違法行為はそこにない。
「炎上」の犠牲(?)となった人々は、きっと、そんなことなんか起こるとは想定せずに、そのブログを公開していただろう。それを迂闊だという人は多い。「炎上」の可能性があるのだから、パスワードなどで読者を限定し、日記を書くべきだった、または、「炎上」しやすい内容は避けてブログを書くべきだった、と彼らは言う。

ここで、私達は良く似た議論を思い出すはずだ。「無断リンク問題」である。
無断リンク」はなんら違法行為ではない。もしも「無断リンク」されるのが嫌ならば、ネットに公開すべきではない、またはパスワードで読者を限定しろ。ほら、そっくりでしょ?

この二つの問題は、表裏一体なのだ。
「炎上」を肯定するならば、当然「無断リンク」は肯定されなければならない。そして「無断リンク」を肯定するならば、「炎上」も肯定されなければならない。…かどうかが、分からないのだが、ひょっとしてそうなのではないか?

このことについて考えている最中に、私は、代表的な「無断リンク禁止」否定論者である高木浩光氏の以下のような発言を見つけた。

こうした宣言*2が批判されなければならないのは、一般の人が目的を持って無断リンク禁止を宣言することに有害性があるからである。無断リンクを巡って起きた騒動を振り返ると、次のような流れが典型であった。ある人が開設していたWebサイトは、当初はごく少数の人が訪れるだけで、平穏な日々が続いていた。そこにある日、著名なサイトからリンクされ、大量の人々が閲覧にやってきた。当該サイトには倫理上問題のある記述があり、訪れた人々に批判されることとなった。開設者は批判されることに耐えられず、サイトを閉鎖してしまう。こうした事態を避けようとして、「当サイトは無断リンク禁止です」と主張する人たちが出てくる。著名なサイトからリンクされることを拒否することで小規模なコミュニティを維持し、批判されずに安住できる場を作りたいというわけだ。批判されたくないと考えるような人が、批判されないであろう場を得ると、しばしば、批判されるべきWebコンテンツを書いてしまう。犯罪行為を自慢する内容や、他人の著作権を侵害するコンテンツや、他人の名誉を毀損する内容などである。

http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20060611.html

ここに書かれている「次のような流れ」は、まさに「炎上」そのものだ。
「炎上」を避けようと、一部の人間は「無断リンク禁止」を謳う。そしてそれが実現されたと思い込み、不適切な内容を書き込んでしまう。この点が有害だ。と高木氏は主張しているようだ。
高木氏は「炎上」をどう思っているのだろう?はっきりとした肯定はしていないが、この部分を読むと、「自浄作用」のような認識を持っているようにも思えてくる。

しかし、元の文章ではこの直後に、

無断リンク禁止でそれを実現できたと思うのは単なる勘違いであり、そのような勘違いによって不幸な事態が起きるのを避けようと、ネットの先人達は、「そうしたことをしたければ、アクセス制限をかけるしかない」と諭してきた。その裏返しが「リンクの自由」という考え方であろう。リンクするのは自由であることを前提として、リンクされたくないような場合はアクセス自体に制限をかける(識別符号とアクセス制御機能によるアクセス制限をかける)という、常識を育んでいくほかないのである。

と続けている。この部分で述べられている「不幸な事態」とは、「炎上」のことかと思う。そしてそうならば、これは、「犯罪行為を自慢する内容や、他人の著作権を侵害するコンテンツや、他人の名誉を毀損する内容」を一般に公開すると、「炎上」の危険があるので、隠れてやりましょうね!と「ネットの先人達」がありがたくもアドバイスしてくださっているという話になってしまう。この部分では、「炎上」を、それこそイナゴの大群のような「できれば避けたい自然災害」のように考えているようだ。
一体どっちなのだ?「炎上」は自浄作用なのか?イナゴなのか?
そしてこの問いは、「無断リンク禁止問題」と密接にリンクしているように思う。私は正直、よくわからないでいる。誰か、考えてはくれないか。だって、仕事忙しくって、暇がなかなかないんだもん。


ついでに疑問をぶつけておくが、前段の引用部分のどこに、「有害性」があるか分からない。
犯罪行為そのものは有害であるが、それを自慢するのは、単なるアホなだけであり、むしろ、犯罪者の発見ができて良いことなのではないか?パスワードをかけて、一部の友人にしか見せないなら、他人の著作権を侵害しても良いのか?他人の名誉を毀損してよいのか?良い訳がない。だったら、むしろ「無断リンク禁止厨」を泳がせておいたほうが、彼らの犯罪が露呈しやすくて良いではないか?どこがどう「有害」なのか?
そして、この前段部分が、てんでインチキな主張ならば、「炎上」の肯定はせずにすみそうだ。しかし同時に、高木氏の言う無断リンク禁止の「有害性」はずいぶんと矮小なものになってしまうと思う。どーなの?そのへん。

*1:実は、ここには議論の余地があると思う。誰か考えて

*2:引用者註:「当サイトは無断リンクを禁止しています」などという宣言